腎ろう造設へ…(2015/11/02)

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朝から熱発、震えと悪寒。39.7度。

落ち着いてからの体温なのでまだ高かったと思われ。

10時30分過ぎに、違う階の個室へ移動します。

「汝、暗闇を振り返るな。過ぎたことはすべてその場へ置いて征け。

汝、暗闇を恐れず進め。困難の中で乗り越えた危機はこれから前進する力を与えてくれるはずだ」

なーんてね (^_^;)

どうなることやら…(2015/10/24)

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熱発、尿の違和感、見事に腎盂腎炎らしき症状。

8月にも同様の症状があらわれました。

ただ元気な状態からこうなっているので、気合いでどうにかしてみます。

さておき、痛み止め飲んででも明日の日本シリーズには参戦します。

月曜日に最善の状態になるよう自分なりに水分摂ったり薬の調整でがんばってみます。

火曜日に泌尿器科受診なので、どうなることやら…

読書嫌い(?)の初書評体験(2015/9/19)

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生まれて初めて書評に立ち向かっている。自分でも不思議に思う。実を言うと本を読むことが苦手なのだ。ことさら闘病記は努めて読むのを避けてきた。1984年、私は13歳で白血病になった。その時から常に生と死を考えるようになり、言ってみれば闘病のドキュメンタリードラマで演じ続けることを余儀なくされた。治ることが困難な時期だったことも合わせて、他の人がどうしているなんて関心をもつ余裕など微塵もなかったのだ。少しずつがんが治るようになってくると闘病記なるものが世に出るようになったが、それでも読まなかった。自分の病気は与えられた環境において自分でプロデュースするという、信念みたいなものがあった。闘病記を避けてきた理由は以上として、本を読むのがそもそも苦手なのは、書籍には活字がドーンと攻めてくるようなイメージがあるからだ。読むことそのものが苦手ではない。新聞や雑誌、web上の記事やコラムを読むことはむしろ好きである。そんなこんなはいったん置いといて、この本を手にとることにした。「読まない理由」を振り払って書くことにする。

まずは「結婚しよう」の一節、思わず笑ってしまった。私は結婚して一年と少し経つが、二度目のがん、直腸がんの闘病中にある日突然「結婚しよう」と言ってきたのは妻からだった。妻からの「結婚しよう」という言葉は、著者が逆プロポーズを受けた時の反応が身悶えするくらい自分の時と同じで、まさに「不良物件」であった。休日窓口に二人で婚姻届を提出したことまで。まるで原作が映画化されて、少しだけストーリーに脚色が加えられたくらいの違いかもしれない。さらに巻末の「二人で紡ぐ物語」を読み、あらためてその時の、そして今の妻の思いを考えさせられた。著者の妻が結婚することへ至った思いを「家族となり、彼が突然背負い込んだ荷物を一緒に担いたかった」と記している。私の妻は「結婚しよう」と言った後に「責任をもちたい」と添えた。本当の二人三脚で病気に立ち向かう日々はそこから始まった。入院や手術、治療の苦しみを乗り越える目的が自分のためだけではなくなる。そうなのだ。病気を患ってしまった本人にとって最大の支えになるのは、いちばん側で寄り添ってくれる人なのだ。

私が受けた最後の手術は2012年の年末で、そのまま正月を迎えた。テレビはお正月モード、そこに映る人々の姿は初詣や海外旅行など三が日を過ごし新年を祝っている。入院患者にとって日常と違うことのひとつは食事の献立。ちょっぴり豪華っぽい食材と謹賀新年などと書かれた紙が添えてあったりする。スタッフの数も少なく病棟には患者はほとんどいない。くじで正月勤務になってしまったなど、にこやかな愚痴などの会話を交わしながら閑散とした病棟は、かえってアットホームな空間のように思えた。その時期に著者は抗がん剤の副作用と闘っていた。私も手術後の痛みがようやく和らぎ始め、前屈みで点滴台を転がし渡り廊下を行ったり来たりしながら歩く練習をしていた。高層の病室からの初日の出はきれいに見えて、写真を何枚も撮ったことを覚えている。

著者は医療者との関わりの描き方も達者である。医師の最初の印象が徐々に変化していくことや看護師が身近に支え話をしてくれることなど、医療者と患者の立ち位置の高さが違わないことを教えてくれる。文中に「優しい看護師にしっかり歩かされたおかげで、回復は早かった」とある。これは手術後のリハビリを経験した者にしかわからない、愛のこもった‘irony’である。

「「絶対死なない」確信」という一節がある。著者はある瞬間、「このまま死ぬことは絶対ない」という確信に打たれる。私は、ほぼ同様の思いを13歳の病気の時に感じた記憶がある。治療薬を試しても副作用によって確定できず、肝機能障害や血小板減少など深刻な状態を経ていながら「自分は絶対治る」という根拠のない思いは決して消えることがなかった。「負けられない」という気持ちがなにかしらに作用するのは本当である、と自信を持って言える。病気、治療、副作用、治ってからの生活などに対し、自分の気持ちをぶつけていくことは必ず何かのパワーを生み出してくれると私は確信している。

がんを患う前まで、著者は最前線での仕事を任され忙しくも充実した日々を送っていたように、誰もがその人にとってあたりまえの日常を暮らしている。しかし病気は予告することなく無差別に誰かの頭上に降りかかってくるものなのだ。そして苦しく辛い闘病生活が始まる。時には「死んでしまいたい」ということさえ大げさではない思いを抱えながら、それでも病気を治すために全力で挑んでいく日々を重ねるのだ。そんな思いをしてまで、がんばろうとするのはなぜか。おそらくはほとんどの人ががんを患う前と同じ、もしくは少しでも近い状態であたりまえの日々を再び送りたいと思っている。そして自分の「居場所」に戻ることをみんな目指し、病院の中そして病院を出てからも闘いのリングに上がり続けるのだ。実は「居場所」へ戻ろうとする思いこそが、最終的には病気を乗り越えようとする大きな力になってくれるものだと感じている。

重ねて「死を想うこと」の大切さ。悲観的なものとして死をとらえるのではなく、フラットなものとして死を考えること、そして生きることと結び付けていくことを普段からできていれば、ある日突然がんという病気に直面した時にいくらばかりかの手助けをしてくれるように思う。この思いは、がんが不治の病であったころに白血病になりその後の人生を送っていく中で私自身が自然と心の中にできあがってきたものである。がんが治る時代なってきた今こそ、このような考えをもった人が一人でも増えることが重要であるし、そのきっかけが「死の教育」などを通じて早い時期であれば浸透させていくことにもつながるだろう。

この著書は、新聞記者としてのある意味での「使命」を果たすかのごとく書かれたものであり、がんになったばかりの人や治療中の人、患者の家族など本を手にとったすべての人に対して良い方向へ心を向かわせてくれる役割を、優しくひらがなで「がん」と描かれたブックカバーの中に包み込んでくれている。

偶然、著者と私は同い年であり同じサバイバーでもある。プロポーズの状況まで似ているときて、とても親しみやすく読めた一冊であった。しかしながら明らかに自分と違う点がある。私と異なり著者がイケメンであること。それだけがうらやましいかぎりだ。

*この書評は今週の一冊でも読めます。

治療、旅行、夏色々(2015/8/9)

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7月末、経口での抗がん剤治療スタート。

この治療は5日間薬を飲み2日間休薬を2週にわたって繰り返し、その後の2週間は休薬という4週間で1クール。

最初の1週間が終わり、2週間めになる頃、奥さまの夏休みに合わせて北海道へ旅行。

抗がん剤を飲みながらゴルフを2ラウンド。やればできるものです。

ゴルフだから、北海道だから・・・

最後の晩餐、ジンギスカンを食べていたら奥歯が欠けるというオチがつきまして、無事に福岡へ。

多少の疲れはごまかしつつ、日常の生活に戻りまして。

そして8月6日、佐賀県医療センター好生館にて、教師対象の「小児がんを学ぶ研修会」にて講演の依頼がありまして、微力ながら協力させていただきました。

熱心な先生方はたくさんいらっしゃいます。ありがたいです。

ところで治療の影響は・・・

強がってはいるものの、やはり血液の数値が多少動いているように感じつつ、でも強がっています。

そして昨晩、近くでの花火大会を遠くから眺めていました。その写真。

暑い夏はまだまだ続きます。みなさんも無理はなさらず健康にはお気をつけてくださいませ。

決して強がらないように。

雨ニモ負ケズ、帯状疱疹(2015/7/22)

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九州北部は梅雨明けもまだで、本日も雨がシトシト降っています。

このブログでも時々書いていたように、現在の治療は通常であれば外来対応が可能なのですが、副作用の関係で私の場合は一泊の入院が必要でした。今月も6日に入院して治療スタート。ここ数か月の最も深刻な副作用は治療の最中に、ある薬が入ると体が震えて息苦しいと言うより呼吸困難寸前のようになり、さらに高熱を発することでした。もちろん万が一のために心電図のモニターでチェックしながらの治療です。しばらくはこの症状をごまかしながら、なんとか治療を続けていた状態でした。

そして今回の治療でも同様の副作用が発生しました。どこかしら自分でも「やばい」と思えるくらいの苦しさでもありました。それでも耐えながら点滴を続けたのですが、主治医の指示で治療を一時ストップすることに。のちに主治医からの説明があり今回をもってこの治療を中止するとのこと。信頼をしている主治医なので決定には素直に従う旨を伝えました。ただ治療が中止になるということは、治療を続けるがん患者にとってそれだけの事ではないのです。たくさんではない治療法のひとつが使えなくなることを意味します。新しい治療があればいいのですが、その保証はありません。また新たな治療が効くかどうかもわからないのです。今までも数種類の治療をおこないながら、様々なきっかけごとに治療法が変更になってきました。特に今回の治療が中止になったことに対して、なぜか悔しい思いでいっぱいでした。それはただ単に治療ができないというだけではなく、現在進行形でがんと闘っているからこそ湧き出てきた感情でもあり、昨年の5月の再発、自分としては最悪の状況と感じた時から始まり救ってくれた治療だったからかもしれません。約1年間、24クールにわたる治療でしたが、主治医からは「この状態で、これだけ長く続けたケースは少ないですよ」との話でした。自分の性格では何があろうと意地でも続けようとしたのでしょうが、ボクシングに例えて言えば、絶対にギブアップせず自分の命をも顧みずに戦い続けるボクサーに、トレーナーがギリギリの状況まで見極めた上で、これ以上にないベストのタイミングでリングにタオルを投げ込んでくれた感じでしょうか。これまで個々の副作用が出る度に工夫を加えながら可能な限り長く治療を続けてくれて、さらに中止という決断をしていただいた主治医には心から感謝している次第です。

しかし、ここで立ち止まるわけにもいきません。幸い主治医より次の治療の提案がありました。新しい治療は服用薬を使用し外来だけで対応可能で、前回の治療よりも副作用は軽いだろうとのこと。であれば、もし仕事に復帰する場合にはメリットになります。効く効かないはやってみないとわかりません。心機一転、今週から始まる治療に備えていたのですが、ところがどっこい先週末から帯状疱疹を発症。あらら!

昨日治療のために受診したところ、帯状疱疹が落ち着いてからと当然の措置で金曜日に延期ということになりました。なーんかうまくいかないものですね。ま、でも長く治療を続けていると、たくさんこういうことを積み重ねてきて今日に至っているのかなとも感じます。そしてこれからも、うまくいかないことがたくさんあることでしょう。

ということで仕切り直しということになりました。治療はこれまでと変わらず全力で立ち向かっていくわけですが、なにより梅雨が明けてくれないと、大好きなゴルフに行けません。言ってみればゴルフは抗がん剤以上の治療効果があると勝手に思い込み、それを大義名分にしつつ病気のことも忘れて緑の中を走り回っているわけですが。

一日も早く、晴れ間が見えてほしいんですけどね。

あきらめない!(2015/7/1)

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7月1日、2015年も残り半分となりました。本日は文章にて4月からの生活が変わったことを報告します。結論から言えば、教員の仕事を失うことになりました。そこへ至った経過を少し説明します。今年の2月、次年度の契約について上司からの話がありました。まず最初に問われたのは「病気によって長く休むことはないのか?」「治療はいつ終わるのか?」ということでした。昨年の5月に病状が悪化し、しばらく入院したことでたずねられたのだとは思いますが、最初の質問には「わかりません。しかしそれは私に限ったことですか?いま健康な人でもわからないじゃないですか?」そして次の質問には「現在の病気が完全に治ることはありません。治療は続けられる限り終わりません。」と返答しました。上司から「現時点では来年度の契約は無い。ただ新入生の人数によっては流動的になるだろう。」との言葉でした。

率直に言って怒りがおさまりませんでした。理由が何であれ働くことに際し、自分の病気を前面に出して話をされたこと。なりたくてなった病気ではないのです。でも局面になると「療養」などのきれいごとの言葉を添えられて、病気であることが利用されるのです。もうその後の交渉を進める気持ちにもなれず、3月の新入生の人数が確定するのを待つことにしました。

職場での当時の立場は非常勤講師、いわゆる非正規です。仕事を辞めさせられることは契約上いたしかたないことですし、業務の評価としての結果と言われればそれまでの話です。ただ自分本位であることを自覚して言わせてもらえば、前述した通り昨年しばらくの入院はあったものの、勤務できる状態の時には仕事に穴を開けたことはありません。具体的にはこの「NoBlog」にも掲載していますが、2週間に1回の抗がん剤治療、月曜日に入院し火曜日には退院ですが、胸部のポートに針を刺した状態で抗がん剤のボトルを携帯して退院します。治療の終了は水曜日の深夜から木曜日の早朝で自分で抜針をします。スケジュールは火曜日午前に授業があるので、退院したその足で学校へ直行し授業をおこないます。翌日も針を刺したまま抗がん剤が導入されながら教壇に立っていました。ただそれは無理をしながらという感覚でなはくて、やるべきことできることを当たり前に実践していただけであり、それ以上に治療の最中であっても生徒の顔を見て、おたがいに笑いながら楽しく教室で過ごすことが自分にとっては病気を治すための最大のエネルギーになっていました。

3月の後半、来年度の契約はないことを正式に伝えられました。その時に補足されたのは「今回のことは病気が理由ではない。」という私からすれば学校側の逃げの口上でした。2月の時点で病気に焦点を置いた話であったのを翻すかのような態度が心中では許せませんでした。ただ結果が変わることもなく、受け入れたという気持ちとも違うのですが現実としては4月からの仕事を失いました。

もっともお世話になり病気のことも理解していただいている上司から、日頃から常々こういう言葉をいただいていました。「お前みたいに病気と闘っている人間を教壇に立たせることが学校としての品格や。」そしてに今回の結論が出てからも、来年に向けての前向きな言葉をかけてくださいました。そのことだけが唯一の救いになりました。

わたしのがんカフェでも「がんと就労」についてさまざまな意見を交わしてきました。いみじくもそれが現実の問題として自分自身が直面する出来事になりました。職場において個々のレベルでは同僚や上司など、がんや病気に対して理解し親身に考えてくれる人もいます。しかしそれが会社など組織の総意になるのは非常に困難なことなのです。実際ひとりの上司が「・・・品格。」と言った考えは学校経営の責任者には皆無だったのだろうとしか思えませんでした。そして社会の中でもがん患者にとって「働くこと」「居場所があること」の大切さを、一刻も早くわかってほしいと切に感じました。

教員の仕事を失ったことは残念、というか正直悔しい思いを味わいました。でも心は全然折れていません。実際に近辺の中学校などからのオファーもありましたが、治療スケジュールとの折り合いがつかずお断りすることになりました。あいかわらずポジティブに日々を過ごし、なによりこのHPの映像タイトル「高校教師をあきらめない」気持ちは一点の曇りもなく持ち続けています。またいつか再び教壇に立ちましたとみなさんに報告できるよう、ノンストップで走っていくだけ、前だけを向いて進んでいくつもりです。たくさんの生徒らにまた会いたいので。